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3月20日の<uttiiの電子版ウォッチ>(無料版) [uttiiの電子版ウォッチ]

二日近く更新が遅れてしまいました。3月20日の<uttiiの電子版ウォッチ>をご覧ください。いつもと趣向を変えて、各紙が1面に掲載する名物コラムを俎上に載せています。


 【20150320】

【はじめに】

 「テロと米朝」。亡くなった桂米朝さんには何の罪もないけれど、そんな対極的な事柄が同時に目に飛び込んでくる今朝の各紙1面。チュニジアからの悲報は、どうしたって20年前の地下鉄サリン事件を想起させる。桜の便りとともに鼻もムズムズし始めるこの季節、心がざわついて何か叫び出したい衝動にも駆られる3月20日。今朝の<uttiiの電子版ウォッチ>をご覧ください。

 しかし、米朝さんは本当に偉いおひとだったのですね。各紙1面に大きな記事を配していますが、《東京》に至っては1面トップですよ。文化勲章だ、人間国宝っていうのはお上のくださるものですから、まあ、どうでもいいとは言いませんが、やっぱりどうでもいい。そんなことより、とにかく、上方落語というものを今楽しむことができるのは、どうやら米朝さんのお陰、ってことになるらしいわけで。そらぁ、凄いかたです。このかたを語るときに必ずみなさん口にされるのが「上品さ」。そう。耳の奥に残っていますよ、米朝さん独特の鯔背なお声と滑らかな語り口。

 そんな米朝さんの懐かしい記憶に誘われて、今朝はいつもと少し違うことをやってみることに。

 各紙、1面の下には短いコラムが置かれていることはみなさん先刻ご承知でしょう。オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど20年がたち、二日前のチュニジアの無差別テロ事件が生々しい今日3月20日、四つのコラムを比較して、各紙の特徴を紡ぎ出してみることにしましょう。 四つのコラムとは、《朝日》の「天声人語」、《読売》の「編集手帳」、《毎日》の「余録」、そして《東京》の「筆洗」です。

 まずは【朝日】の「天声人語」から。書き出しは、「「あの世」を信じているひとはどれぐらいの割合か」と来た。調査によれば、20歳代では55年前に13%だったものが45%と、実に3倍以上に増えたという。今はドリームが失われ、「若者の希望はかすれがちだ」と。事件後に取材した若いオウム信者たちから見えてきたのは、オウムは、悶々とした若者の悩みを希望に変える錬金術師だったということらしい。オウムのような落とし穴にはまってしまう若者は、昔よりも今の方が多いのではないか。そんな警告を記者は発したいらしい。的外れではないだろうが、この単純な構図は少々見飽きた。他人のことを心配するより、《朝日》は、ジャーナリストとして社会の木鐸になる夢を抱いた若者が自社への就職を希望してくれるか否か、もっと心配した方がよい。「高収入」ばかり期待しているような輩が集まってしまえば、それこそ《朝日》の未来は覚束ないだろう。オウム以外にも落とし穴はたくさんある。

 【読売】の「編集手帳」は、事件から20年を迎える地下鉄サリン事件で、当時霞ヶ関駅の助役だった夫を殺された高橋シズエさんのことから書き始める。シズエさんは講演の際、白い紙をくしゃくしゃに丸め、元に戻そうとしても消えないそのしわを、癒えぬことのない「心の傷」になぞらえるという。説得力のある話だが、そこから「編集手帳」の暴走が始まる。オウムを「宗教に名を借りた犯罪者の集まり」「若者をたぶらかす術策を心得ている」「人の命を虫けらのように扱って恥じない」とひたすら論難し、最後に「無数の白い紙をくしゃくしゃにした狂気を、時空を越えて憎む」と一本調子に言い切り、コラムを閉じている。言われていることはもっともだと思いながら、そのことしか口にしない「編集手帳」による事件の捉え方には、単純な「正邪二元論」が潜んでいるのが見て取れる。悪い奴はやっつけてしまえ、という素朴な「正義感」は、遺族の応報感情は満足させても、事件の真相やその背景に潜む問題を見えなくしてしまう危険がある。実に《読売》らしいなと思いつつ、自衛隊が海外に出て行くときにもこの調子でやられたら堪らないだろうなあと感じた。桃太郎の鬼退治じゃないんだから。

 【毎日】の「余録」。地中海世界には、嫌悪などの籠もった眼差しが「相手の人に災いをもたらすという邪視信仰」があり、チュニジアの家々の扉には、その災いを払う「ファーティマの手」と呼ばれる護符の図案が描かれているという。もう、ここだけで十分にチャーミングな話になっているが、こうした信仰から生まれた気風が、「お互いの言動をつつしみ、相手を気遣う作法」につながり、その延長線上に「アラブの春」を民主化に結びつけたチュニジア社会の穏やかさや寛容といったものを想起しうると展開する。その「穏やかさ」を裏切る凄惨なテロ事件。対抗するためには、「犠牲者の無念さを胸に刻み、邪悪な力を封じ込める手をしっかりつなぎ合わさねばならない国際社会だ」と締めている。最後の結論だけは「いかにも」な感じが漂っていて、正直好きになれない。もう一度、「相手への気遣い」や「穏やかさ」「寛容」を登場させて欲しかったけれど、それでも魅力的な文章であることに違いはない。単純な「二元論」を越えようとする何かが、ここにはあるように思う。

 【東京】の「筆洗」は、アクロバティックなコラムになった。まずは『毒のはなし』(バチヴァロワ著)から説き起こす。「毒の歴史は人類の誕生とともに始ま」り、「毒の調合の秘密を知るのは神官や族長に限られ」たと。毒物学の世界的権威アンソニー・トゥー博士が土屋正実死刑囚に七回目の面会を求めたという記事が17日の《東京》に掲載されており、電子版ウォッチでも紹介したが、そのトゥー博士によれば、土谷死刑囚は、この『毒のはなし』を読んでサリンを使う着想を得たのだという。今日の「筆洗」はここからの話の展開が凄い。オウムが毒を使ったのは、「毒の調合の秘密」の力で自らの正義を世間に示すためだった、と前半の話を括り、続いて「毒性ゼロのものは存在しない」という『毒のはなし』の引用から、一気に「正義にも毒が潜む」と話を逆転させる。「実現のために人を害することもいとわぬようになった時、正義は猛毒を発生し始める」という締めの言葉が指し示しているのは、何もオウムのことばかりではあるまい。日本社会は、今もオウム事件の影響下にあるということにほかならないではないか。正義ほど恐ろしいものはない。了。



 


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